その有名人は私のかつてのクライアントだったが、この人がそのような発言をしたことは知らなかったので、そうなのかと聞いていた。
時間の都合で、この人が自主避難者をなぜ「頭のおかしい人」と評したのか、その理由は分からなかったが、推察するに「そもそも避難する必要のない人が、思い込みで勝手に避難した」という意味なのだろうと。だが、千葉は、とりわけ東葛地区は深刻な放射能汚染が発生した地域だ。周知のとおり、どんな微量であっても放射線被ばくが電子を吹き飛ばす電離作用によって人体のDNAなどの組織を傷つけることはよく知られていて、電離作用が健康に悪影響を及ぼす可能性があることは「勝手な思い込み」どころか、科学的に十分根拠のある認識である。
だから、そのような可能性を踏まえて、健康への悪影響を懸念して、現実に健康への悪影響が出る前に、予防的に、汚染地から自主的に避難することは極めて根拠があることで(311前の山下俊一放射線健康リスク管理アドバイザーの愛用したコトバ「転ばぬ先の杖」、小泉元首相の愛用したコトバ「備えあれば憂いなし」も予防的な対処の必要性・重要性を訴えている)、そのような場合には「そもそも避難する必要が十分にある」。なので、それを「頭のおかしい人」と評する人のほうがよっぽど「頭がおかしい」、あべこべだ。
ただ、ここで私がちょっとひどすぎると思ったのは、予防原則に従って行動した人を「頭のおかしい人」と評する態度に、自主避難者に対する何とも言えない、陰湿ないじめ、パッシングを感じたことだった。これらのいじめ、パッシングは「不当」のレベルを超えて、「人権侵害」のレベルにまで達しているのではないかという気がした。
そして、このような陰湿ないじめ、パッシングがなぜ、しかも執拗にくり返されるのか?その理由を考えていくと次のことに思い当たる。それはいじめ、パッシングをする側に次の意識があるからではないかーーあんたら(自主避難者)は、強制された訳ではなくて、もともと自分自身で避難しようと決めたんだろ。自分で決めたんだったら、避難した結果、どういう事態になろうとも、それは自己決定がゆえの自己責任だろうよ。避難先で直面した事態に、ぐだぐだと文句を言うんじゃない!
つまり、自分で決断して避難した以上、その結果、避難先で経済的、人間的、教育的に数々の未曾有の困難な生活に直面しても、「身から出たさび」なんだから、それに耐えるべきであって、それに対する救済を求めるような真似をするんじゃない!と。言い換えれば、自己決定したんだから、「自分のまいた種」として、避難先で直面した数々の人権侵害(安心して避難先で生活再建をする権利の侵害)に対して救済を要求するんじゃない、甘受すべきだと。
このような意識を抱いている人にとって、自主避難者が人権だの救済だのを口にするのを見聞きしたとき、これに猛烈に反発し、いじめ、パッシングに出るのは或る意味できわめて自然の成り行きに思えた。彼らのいじめ、パッシングの背景にはどうやらそれなりの理由があるらしい。だとしたら、それは容易に止むことはないだろう。だから、冒頭で紹介した、九州に避難した人は、彼らと理解し合うことは諦めて、自分の気持ちを分ってくれる人たちを求めて、この日の集会にもやって来た。
しかし、彼らと理解し合うことは不可能なのだろうか。彼らのいじめ、パッシングの背景にある理由は解決不可能だろうか。私はそうは思わない。彼らと理解し合うことは容易ではないかもしれないが、永遠に不可能とは思わない。彼らもまた、自分なりの信念に基いていじめ、パッシングに出ているのだから、もしその信念を覆すことができたなら、いじめ、パッシングを覆すことができる。
では、どうやって、彼らの信念を覆すことができるのか?彼らの信念をめぐってどのような対話をしたら問題の解決に向けて次の一歩に進めるのか。
この点について、次のような考え方がある。
そもそも、この世には生き物としてどう生きるか死ぬかといった「事実」しかない、人権とか責任とかの「規範」なんて存在しない。そう考える人にとっては、「自己決定したんだからその結果に対して自己責任を負え」という「規範」も存在せず、意味がない。同様に、自主避難者が避難先で直面した数々の困窮を国が救済すべき「責任」があるという「規範」もまた存在せず、意味がないことになる。すべてはこの世の「事実」次第であって、弱肉強食の世界のままだから。
私はトランプやネタニヤフが好む、このような「事実」万能論に組みしない。 この世には「事実」と並んで、人権とか責任とかいう「規範」も存在すると考える。しかも「規範」は初めから存在するものではなく、「生成」の中から存在するに至るもので、なおかつ、この「生成」の原動力は我々市民にある。
その結果、「責任」のあり方も、「責任」が誕生した頃の姿とその後の世界の変化の中での姿とはちがってくる。近代社会誕生の頃の「責任」はカントが指摘したように、自分の意思(自由)で特定の行為を選択した以上、その行為の結果に対して「責任」が発生するというものだった。刑事では、自由意志(自己決定)にもとづく犯罪行為が刑事責任の根拠とされた。民事でも、自分の意思で契約を締結した以上、その契約内容に拘束され、契約違反をすれば「責任」が発生した。
しかし、この古典的な「責任」論は、その後の世界の変化の中で従来の姿から抜本的な変容を迫られた。その典型が20世紀に登場した社会権(生存権)、つまり営業の自由を抜本的に修正する人権=社会権だった。古典的な「責任」論では、自分の意思で契約を締結した以上、その契約内容に拘束され、契約内容の変更を求めることは原則として許されなかった。しかし、その結果、経済的弱者である労働者は経済的強者の経営者が決定した雇用契約をそのまま受け入れて締結せざるを得なくなり、たとえどんな不利益な契約内容でもそれに拘束されるという不条理な結果が発生した。ここにおいて、たとえ表面上は、自分の意思で契約を締結したとしても、その契約内容が正義公平に反するものであれば、そのような契約内容に労働者は拘束されず、正義公平に合致するように契約内容を強制的に変更されるように「責任」論が抜本的に変容された。個人の自由意思に着目した古典的な「責任」論は、個人が置かれている構造的な関係(その典型が、市民が労働者として圧倒的な格差のもとで経営者と雇用契約の関係に入る場合)の中で個人の生存が十分尊重されるにふさわしい責任の取り方に、抜本的な見直しをすることになった。
そして、この、古典的な「責任」論の現代における変容という問題が、自主避難者の「自己決定」に対しても、もろに影響する。その結果、自主避難者は、避難するかどうかを自分で考え、自分で避難を決定したとしても、そこから従来のように、機械的に、避難した結果に対して自主避難者が全面的に自己責任を負うのではなく、生存権保障の観点から、自己及び家族の被ばくの危険を考慮して、予防原則に従って避難した本人及び家族が避難先で生活再建を果せるように必要な支援を行なうことが国家や自治体の法的な義務として、つまり「責任」として発生することになった。その結果、もし国家や自治体が自主避難者の避難先での生活再建がスムーズに果せるように、必要な支援を実行しなかった場合には、それは自主避難者の生活再建権という人権の侵害となる。言い換えれば、避難を自主決定したからといって、避難先での生活再建において様々な困難に遭遇したときにそれらを全て避難者の自己責任として甘受しなければならないいわれはなく、国や自治体は、自分たちが避難者の避難先での生活再建を支援しないことの言い訳にすることはできない。むしろ、避難者の自己決定は、従前の「自己決定と自己責任」とは正反対の、避難先での「生活再建権」を保障すべき根拠とされるように変容した。
この点さえ正しく理解さえすれば、自主避難者が避難を自己決定したことをもって、自主避難者が避難した結果について国や自治体にあれこれ要求することがおかしい、とはもはや言えなくなるだろう。自主避難者に対する陰湿ないじめ、パッシングもその根拠を失ったことを自覚できるだろう。
最後に、
近代社会の到来で、人権が登場したとき、それは国家の不干渉(不作為)を内容とする自由権だった。しかし、資本主義の成熟の中で格差が拡大し、貧富の差が顕著になったとき、人権はその命を保つために、抜本的に進化した。それが国家の関与(作為)を内容とする社会権(生存権)だった。この「人権」論の変容はどの憲法の教科書にも書いてある。しかし、この抜本的な進化の過程で、実はもうひとつ重大な進化があった。それが「責任」論の変容である。これについては、憲法の教科書のどこにも書かれていない。
そのため、まだ単純明晰な定式化に至っていないが、それは「自己決定と自己責任」から「自己決定と自己無責任&国の責任」へのシフトを内容とする。
そして、この「責任」論の変容を自覚しないことが、人々を、誤った自己決定論に基づいて自己決定をした者(ここでは自主避難者)に対する陰湿ないじめ、バッシングを発生させる温床(根拠)となる。 だから、自己決定をした者に対する陰湿ないじめ、バッシングを解決するためには「責任」論の変容の自覚が不可欠である。そのための対話を 日本各地の市民としたいと心から願っています。
















