9月29日のチェルノブイリ法日本版のさいたま学習会で、時間切れのため、日本版の条例案についての話が出来ませんでした。そこで、それについての補講を、10月30日、少数のメンバーを相手に行ないました(ミニ学習会)。
以下がその動画とプレゼン資料。
1、前半(前座)
2、後半(条例案解説)
3、プレゼン資料>PDFまたは(下の画像をクリック)
以下は、講師が参加者の皆さんに送った2つのコメントです。
1、報告
昨日は長時間に渡り、お付き合い頂き、ありがとうございました。
この夏に「脳化社会」論に直面して以来、私の頭の中は全てのことを再吟味せずにはいられなくなったのですが、その中でも、日本版の条例案の再検討は最もハードルが高く、手も足も出ないままでした。
今回、その条例案の壁に挑戦する貴重な機会を授けて頂き、感謝のコトバもありません。
若い頃に、「人は5分と思考することに耐えられない。それ以上は単に習慣、惰性、ダラダラとぼんやり考えているだけで何も考えていないにひとしい」という言葉に震撼させられ、5分以上考えることを目標にして来ましたが、今回のミニ学習会のおかげで、1日半、考える時間を持つことができ、その中での新しい気づきと出会ったことは私にとって最高の宝でした。
プレゼン資料の最後に書かせてもらいましたが、
学習するとは、単に物知りになるのではなく、自分が変わること、それは自分の認識が変わることだけでなく、自分の行動が変わること。
ただ、それは一気に変わる必要はなく、一歩変わること。
昨日の学習会を経験して、私自身もその一歩前に踏み出すことが出来ました。
これからも、皆さんと、一歩前に出る市民運動を共有できたらと願っています。
取り急ぎお礼まで。
・・・・・・
最後にお詫びを。
昨日の第一部のあとの休憩中に、Xさんから、市民の意識の変化が社会を変えることについて、日本版の中で話して欲しいとリクエストされ、快諾したにもかかわらず、結局、話できませんでした(プレゼン資料に書いてなかったため)。
そもそも、過去に前例のない福島原発事故そのものが私たち市民の意識を否応なしに変化させました(例えば、一瞬にして東日本が壊滅の危機という意識は過去に誰も持ったことはなかった、)。それゆえ、前例のない原発事故の救済もまた、前例のない取り組みです。私たち市民が従前の意識の中にいたままで、これと取り組めるはずがありません。
日本版のエッセンスは、過去の希望の扉をすべて叩いて、そこから未曾有の惨劇と悲劇である原発事故の救済の道筋を暗中模索する、ことです。
私にとって、その希望の扉の1つが、国難に対する市民型公共事業の取り組みです。その過去の希望の扉が、70年以上前、スペイン内戦で疲弊したスペインの寒村で、28歳の神父アリスメンディアリエタたちが始めた、「みんなで働き(協同労働)、みんなで運営する(協同経営)」モンドラゴンの協同組合による経済再建の取組みです。そして、霞ヶ浦の再生をアサザと市民のゆるやかなネットワークを使って市民型公共事業で成し遂げたアサザプロジェクトでした。
とりあえず、以下がその報告ですが、改めて、この希望の扉を、今、私たち自身の市民の意識変革のテーマとして位置づけて、紹介したいと思います。
モンドラゴンの協同組合もうひとつの復興は可能だ--モンドラゴンの可能性の中心--
アサザプロジェクトの再定義:進化する疎開裁判:市民運動家から社会起業家へ(2013.6.21)
2、予防原則について
今、1点気づいたことがあり、それを補足させて頂きます。
昨日の話の中で、予防原則が話題になりました。予防原則がどれほど重要なものか、その重要性について、以前から私は、ロシアンルーレットになぞらえて、次のように指摘してきました(例えば2019年6月の静岡市での学習会のプレゼン資料>こちら)。
>
「子どもたちを被ばくのロシアンルーレットにさらさない」、それがチェルノブイリ法日本版
>
福島原発事故で私達は途方に暮れました。放射能は体温を0.0024度しか上げないエネルギーで人を即死させるのに、目に見えず、臭わず、痛くもなく、味もせず、従来の災害に対して行ったように、五感で防御するすべがないからです。人間的スケールでは測れない、ミクロの世界での放射能の人体への作用=電離作用という損傷行為がどんな疾病をもたらすか、現在の科学・医学の水準では分からないからです。つまり危険というカードが出せない。にもかかわらず、危険が検出されない以上「安全が確認された」という従来の発想で対応し、その結果、人々の命、健康は脅かされました。「危険が検出されないだけでは足りない。安全が積極的に証明されない限り、人々の命を守る」、これが私たちの立場です。つまり人々の命を被ばくというロシアンルーレットから守る。それが予防原則で、これを明文化したのがチェルノブイリ法です。
しかし、昨日の話の中で、新たな気づきがありました。
それは、子どもたちは知らない間に、あたかも自然現象のようにロシアンルーレットの中に置かれたのではなく、ロシアンルーレットを子どもたちをはじめとする人々を置いたのは、ほかでもない、原発を設置した日本政府、電力会社、原子力ムラの科学技術者たちだということです。
つまり、彼らは、自分たちが作り出した原発から発生する事故のために、多くの人々が被ばくによる健康被害を受ける可能性があるのに、その健康被害の範囲を科学的、医学的に証明する科学技術を準備していなかった(正確には持ち合わせていなかった)。それはひとたび暴れだしたら、何するか解らない獰猛な生き物をペットとして人々に与えるにひとしいことです。
彼らは、ひとたび事故ったら、そこから発生する健康被害の範囲を科学的に証明できないことを分かっていながら、その状態のまま、原発を設置したのです。
↑
ここで、次の規範が問われることになります。私は当然だと思うのですが、みなさんはどう思いますか。
過去に経験のない高度の先端科学技術を開発・駆使して作り出した人工装置を社会に持ち込み実用化する場合には、その装置の事故による被害についても、過去に経験のない被害が発生する可能性は高く、その事故と被害との因果関係を現時点の科学技術では証明できない可能性が高い。その場合、その事故と被害との因果関係が証明できない、いわゆるグレーであるという理由で被害者が泣き寝入りを強いられるべきではなく、そもそもそのような過去に経験のない、因果関係がグレーの被害を発生させる原因を作った人工装置の設置者がグレーについて責任を負うべきである。
この「事故で発生する健康被害の範囲がグレー(科学的に証明できない)の場合のリスク(責任)は原発を設置した者たち(国、電力会社)が負うべきある」。それが「グレーは被害者を守る」という予防原則です。
言い換えれば、原発事故による健康被害の問題に対して、先端科学技術を開発・駆使して原発を設置した者たち(国、電力会社)は中立(ニュートラル)の立場にいるのではない。本来であれば、こんな化け物みたいな未知の危険を持つ原発を設置した彼らは、単に原発事故防止の責任を負うだけでなく、原発事故による健康被害の範囲についても、先端科学技術を開発・駆使してそれを明らかにする責任がある。その責任が果たせないというのであれば、彼らはそんな無謀な原発の設置は許されないと言うべきです。
にもかかわらず、原発事故による健康被害の範囲を明らかに出来ないような無謀な原発設置を許可するのであれば、この原発事故による健康被害の範囲について、国、電力会社は、その範囲がグレーな被害者に対し、被害者を守る予防原則を受け入れることは当然のことです。
言い換えれば、国、電力会社は原発を設置する以上、予防原則を具体化したチェルノブイリ法日本版を受け入れるほかないのです。
0 件のコメント:
コメントを投稿